そして誰もいなくなった

Posted at 13/06/11

抜けるような青空が広がる今日の早朝。それまで賑やかだったひとつの鶏舎が、その時を境に静寂に包まれました。
誰もいなくなった鶏舎

養鶏だけでなく、畜産業全てに携わる者が避けては通れないこと。

それは、今まで全神経を集中して育ててきた、動物たちに「さよなら」を宣言し、家畜としての責務を全うさせる日が必ず来るということ。


雛となって、うちの農場へ来ることになったところから、鶏たちとの縁が始まっている、と私は思っています。

育雛鶏舎の中でも、さっきまで隣にいた鶏は大規模養鶏場へ行き、一生涯を狭いケージで過ごすことになり、自らは数少ない仲間たちと、うちの古くて小さな農場で放し飼いとなってその生涯を過ごすことになった縁。
そして、その日々の暮らしの終わりを私に委ねることになった縁。


どちらの縁が幸せかという問いには、きっと自分のところに来た鶏たちだと思う、と答えてはいるものの、鶏たちの本心は分からない。

どちらも神様が本来の「生き物」として授けた寿命をまっとうできない、ということに変わりは無いけれど、最低限うちの農場へ来た鶏たちは、鶏として受け継がれてきた本能に従い、少しは自由に、少しは自己主張して、少しは自らの時間を生きることができたのではないでしょうか。


前日の朝には、最後のご馳走として、鶏たちが一番好きな餌を十分に与えることにしています。

そして徐々に鶏舎の中を片付け始めるのですが、そのあたりから、察しのいい群れの鶏は、いつもと違う雰囲気を感じ、鶏舎の中で作業している間、我々に対し色々なアクションを起こし、感じている異変が本当かどうかを確認してきます。


うちの農場から運び出すため、狭いかごに入れられた鶏たち。自分の運命を悟ったかのように、特段騒ぎ立てるでもなく、警戒する鳴き声を発するでもなく、静かに出発を待つその鶏たちの目は涼しく、ちょっと潤んでいるようにも見えました。
かごに入れられた鶏

これからこの鶏たちは、自分の命と引き換えに、美味しいお肉やスープなどになり、私たち人間の空腹を満たしてくれます。
残した鶏糞は農家の人たちによって、土を肥やし美味しいお米や野菜・果物などになり、その畑に残った果実や雑草は、次の世代の鶏たちの餌となります。

うちの鶏たちが「家畜」として、精一杯生きた証が輪の一部となって引き継がれ、「いただきます」や「ありがとう」になっていく。

やっぱり「食」は尊い。

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